新宿ゴールデン街の歴史、昔と今・・・・・

概要

東京都新宿区歌舞伎町に所在する飲食店街である。およそ2000坪ほどの狭い区画に低層の木造長屋が連なっており、280軒以上の小さな飲食店が密集している。かつては文壇バーなど個性豊かな店も多く、常連客として作家、編集者、映画監督、俳優といった文化人が多く集まることで知られていた。このような背景から、東京におけるサブカルチャーやアングラ芸術の発信地のひとつとなっている。
 1980年代後半のバブル景気の最盛期には激しい地上げに見舞われたが、飲食店の店主ら有志が「新宿花園ゴールデン街を守ろう会」を結成し、団結して地上げや再開発への反対運動を展開した。1990年代に入るとバブル崩壊により地上げは終息したが、地上げに屈して閉店した空き店舗が多数放置され、一時は客足も滞ったことから、さながらゴーストタウンのようになった。が二つの組合が中心となり、街の活性化やインフラの整備などを推進し、結果2000年代に入ると若いオーナーを中心に新規出店が相次ぐようになり、客足も戻ったことから再び活気を取り戻し、近年では欧米からの観光客が多く訪れることでも知られている。
 この街は新宿ゴールデン街商店街振興組合と新宿三光商店街振興組合の二つの組合で管理されている。なお、区画内の路地は私道であるため、路上での写真や動画の撮影にはそれぞれの組合の許可が必要です。

 

前史

新宿マーケットの様子

新宿ゴールデン街の起源は、太平洋戦争終結後の混乱期にできた闇市を端緒とする。

新宿駅の東側には関東尾津組による「新宿マーケット」が広がっていた。その後、屋台を中心とした飲み屋街に変貌し「竜宮マート」と呼ばれるようになった。しかし、1949年に連合国軍総司令部が闇市撤廃を指示するに至り、東京都庁と警視庁は各店舗に対して翌年までの移転を命じた。それにともない、闇市の各店舗は、代替地として新宿区三光町(現在の歌舞伎町1丁目1番地)の一帯に移転することになった。

  

青線と呼ばれた時代

戦後の新宿駅周辺地図

 当時の三光町は歌舞伎町繁華街や駅から離れた場所であり、当時よろめき横丁と言われた一帯のほとんどの店が飲食店の名目で赤線(売春)まがいの営業をしていた。風俗営業法の許可を取らないもぐり営業のため、俗称で「青線」と呼ばれていた。歌舞伎町付近にはこれ以外にも青線が集まっており、都内でも有数の売春街であった。しかし、1958年の売春防止法施行により、青線営業を行っていた店は全て廃業した。  東を花園交番通り、西を都電の引込み線(現四季の道・遊歩道)、南を東京電力角筈変電所、北を旅館街(現テルマー湯)に囲われた区画である。それぞれの路地には「G1通り」「G2通り」「あかるい花園一番街」「あかるい花園三番街」「あかるい花園五番街」「あかるい花園八番街」「まねき通り」といった名称がつけられている。もともとは、G1通りとG2通りのみが新宿ゴールデン街と呼ばれていたが、この名が全国的に有名となったことから現在は区画一帯を総称して「新宿ゴールデン街」と呼ぶようになった。

 

文化人の街

四季の路開園記念

 1958年の売春防止法施行後は飲み屋が密集する街となり、1960年代に花園街商業協同組合(地主組合)がG1通り、G1通りを「新宿ゴールデン街」と名称を変え「花園街」(三光町)と区別して組合活動を行ってきた。

当時1960〜1970年代前半の政治の季節の頃は新宿ゴールデン街・花園街の店は、文壇バー、ゲイバー(特に女装バー)、ボッタクリバーの3つに分類できるとも言われていた。店内は3坪または4.5坪と狭く、カウンターに数人並ぶと満席になる。文壇バーと呼ばれる店が増え、作家やジャーナリスト、編集者、映画関係者らが集まり、熱い議論や喧嘩を繰り広げる場所でもあり、新宿文化の中心地として賑わった。  

 1976年には、小説家の中上健次が第74回芥川賞、佐木隆三が第74回直木賞を、それぞれ同時に受賞したが、両名とも新宿ゴールデン街の常連客だったため、この街の名が全国的に報道されその結果、新宿ゴールデン街は文化人の集う街として広く知られるようになり「文化人たらんとする人間にとってゴールデン街に馴染みの店を持つことは必須」とまで言われるようになった。また、作家、ジャーナリスト、編集者といった文筆業関係者だけでなく、映画監督や劇団の演出家、男優、女優、モデルなどにも常連客が多かった。これは映画界のATG映画の隆盛、演劇界のアングラブームなどともリンクして新宿文化を彩っていた。

 

地上げと再生

新宿ゴールデン街全景

 1980年代にはバブル景気により、新宿ゴールデン街においても再開発の波が押し寄せて来た。地上げ屋が暗躍し、新宿ゴールデン街一帯は激しい地上げに晒されることになった。既存店舗のオーナーらは地上げに反対する動きを見せ、双方の対立が深刻化した。1986年には不審火騒ぎが起きるに至り、危機感を抱いた既存店舗のオーナーらは「新宿花園ゴールデン街を守ろう会」を結成し、地上げや再開発に反対する活動を展開した。著名人にイラストを書いて貰いTシャツを作り活動資金にし、弁護士とも相談しつつ地道な反対活動を続けていった。年末には遊歩道で「餅つき大会」を開催、振る舞い酒などで「新宿ゴールデン街は元気ですよ!」と呼びかけもした。一方で、守ろう会の代表がオーナーを務める店は、その後、何度も不審火の被害に遭った。

 バブル崩壊により地上げは終わったが、今度は地上げにより閉店した店がほったらかしの状態になった。景気も後退し客足もさらに遠のき、ゴーストタウンのようになった。   

 1992年に制定された新借家法の施行や大規模なインフラ整備などにより、若者たちが新規店舗を求めだし、オーナー側もそれに応えて貸出しを承諾。地主組合や誠美興業、オーナーらの団結も加わり、新宿ゴールデン街が再び生まれ変わった。

 

 現在では、昭和の風情を残した個性的な店が連なる世界的にも珍しい飲屋街として、ミシュラン・グリーンガイドに掲載されるなど国内外から注目される街として賑わいをみせている。

罹災したまねき通り

2016年4月12日、この新宿ゴールデン街のまねき通りの一部から火災が発生。店舗兼住宅など3棟、およそ300平方メートルが焼け社会的な事件として報道された。が、区とオーナー、組合、罹災店舗の話し合いの結果、全ての店で現状維持の形で修復され元の営業が維持されている。

 

 2017年以降、新宿区と三光事業組合(所有者)新宿三光商店街振興組合(店子)花園街商業協同組合(所有者)新宿ゴールデン街商店街振興組合(店子)の5者協議の「新宿ゴールデン街まちづくり協議会」を立ち上げ〜風情を守りながら、防災性を向上する〜を掲げ新しい街づくりに取り組んでいる。